海外で農業をするという事、生きるという事。

海外で農業をするという事、生きるという事。

カンボジアで何ができるのか。

正直なところ、何とかなるだろうというのが本音だった。

知り合いを通じて、東京の業者から「カンボジアの農業開発を手伝ってみないか」という連絡がすべての始まりだった。

大筋での合意の後3月中ごろに東京で打ち合わせ、月末にカンボジアへ出発という段取りだった。

その矢先の3.11東北の震災。我が家に被害はなかったが躊躇した。

しかし、仕事の引き継ぎや、渡航手続きは進んでいるし何より既に無職であった。

結局、その業者はとても信頼できる内容ではないことがわかったので、膨大な農場開発計画の資料を山ほど(といっても100枚程度だが)作って4か月で帰国した。

人生最大の挫折感を持って帰国し、二年間の海外移住浪人生活を送ることになった。

今考えるとその二年間は今の自分にとって良い充電期間でもあったし、カンボジアについて知るチャンスでもあった。

その間、二度のカンボジア短期訪問でさらに情報を集め2013年3月に二度目の長期滞在となった。

以来、二年半が過ぎ、多大の貢献をして農場のオーナーになっているはずであったが、未だにサラリーマンであり、これといった成果もあげてはいない。

北海道とカンボジア、どう考えても共通することはなく畑を起こす、種をまく、草を取る、収穫するという単純な作業でさえ、カンボジア人に学んでいるのが現実である。

その二年半に見てきたもの。

商社が過去には農場を開設したころがあるらしいこと(たぶん子会社などであろうが)、今も数社の投資会社が農場を経営しているがこれといった実績を残せないでいること。個人で農村部に入り込み、家庭を持って暮らしている日本人は数人いるらしいこと、また何人かの日本人は個人資金で胡椒・ゴムなどを栽培して小規模ながら順調に経営しているらしいことはわかってきた。

最初の一年は、日系の会社にお世話になりながら粘土と砂の混じった水田地帯の真ん中で野菜つくり。

何とか感触を掴みかけるも安定生産に至る成果を出せず、スタッフだけは育っていったので、やむなく退社。今でもこの時の社長には感謝し、できた野菜を買ってもらう関係だけはお付き合いさせてもらっている。

ほどなく再就職も決まり、今度はキャッサバという初対面の作物に出会うが、200ヘクタールに及ぶ面積に圧倒され知恵は出してもカンボジア人マネージャーに全くあてにされず。日本人を見ると「教えて!」がすぐに出てくるが、やった事がないことはやりたくないというカンボジア人の世間知らずには全く呆れてしまう。

まあ私も展示会等で輸入機械に驚いて、「こんな物使えない」と思った機械が数年後にはスタンダードになった記憶がある。

そんなわけで、今は生姜とオクラを担当し、北海道時代の農場管理という経験を生かしながら経費の管理やマネージャーの育成をアピールしながら生活の維持をしているという、少々自分的には情けない状態である。

社長は現場に常駐はしないので、元農家の私は現場の作業の進め方、日々の作業状況を記録して、効率的な作業を進めるノウハウを蓄積することに専念できるのは価値あることだと思う。

カンボジア農家の実情

カンボジア農家の実情

わからないことは無理だと言い、できると言ってるのにいつまでも進まない。カンボジア人の思考回路は内戦で一度破壊された国の非情な現実を感じる。

現地で採用した作業員は気さくで明るいが、生まれた土地から出ることはほとんどなく、親から受け継いだ知識だけで生きている。

彼らの情報源は隣近所と両親、テレビはあるがドラマかお笑いしか見ない。たまにスマホを持っている者もいるが、カンボジア語でFacebookをするかメールをするだけで、海外の情報はほとんど見ない。

田舎のテレビは衛星放送しかない(日本以上に普及)、内容は多くが中国、タイ、ベトナムなどのドラマに字幕付き。スマホはあっても、海外の情報は英語ができないと見てもわからない。

日本では当たり前のことがこの国では、「英語」という国際語を学ばないと陸の孤島なのである。日本に対しては非常に好感的だが多くは日本の場所さえ知らない、中には地球が丸いという事さえ知らない者もいるのが現実である。

日本人だというと皆一様に農業を教えてほしいというが、実は彼らには十分な経験と実力はあるのであるが、その能力に欠けているものがある。

それは「なぜ」である。畑の作業のほとんどをクワ一丁でこなすのに、なぜこの作業をするのか、どうしてこうしないのか、この質問に答えられる人はいない。

帰ってくる答えは一様に「こうしてきたから」である。

「これがいい」ではなく、「これでもいい」のである。畝を作ると幅がバラバラ、もちろん曲がっていく。これでも作物は育つし、そこそこと穫れるのである。草を取れと指示するとなかなか取らず、伸びた頃になると草をむしって袋に詰めだしたことがある。どうやら自宅に持ち帰って牛に食べさせるらしい。肥料分のない土では雑草も伸びないので畑に生える草は貴重な飼料になるのである。

狭い農地で最大の収穫をあげようとか、まっすぐに植えた方が畑の無駄がなく機械作業もしやすいという日本の常識は彼らには存在しない。雪も降らず、台風もなく、地震や天災もメコンの洪水を除けば全くないから、適当に蒔けば適当に穫れ、冬がないので餓死することもない。

果物は一年中穫れるので、内戦中も農村に餓死という言葉は無縁だったそうである。もし二倍収穫ができる方法があり彼らに教えたとしたら、彼らは次の作付は半分にするだろう。

農民の生活は贅沢な家を建てることや都会に住むことではなく、今の生活をいかに楽しむかなのである。新しい携帯を買い、ボロボロのバイクをHONDAに変え、最低限の農作業の後にみんなで酒を酌み交わす。子供たちと遊び、カンボジア将棋やカードで賭け事をする。そのくらいが多くの農民の将来像なのである。貧乏だとは思っているが、困窮農民ではないのである。

海外に出稼ぎに来た日本人の野望

海外に出稼ぎに来た日本人の野望

俺は何をしているんだ?

ふと疑問がよぎる。還暦間近とはいえ、夢は大いにある。しかしここに暮らすと何が幸せなのか時々わからなくなることがある。

多少の金があれば、農村に住んで畑を作れば暮らしに不自由はない。

しかし、病気になったら、日本に帰る費用は?

自宅の維持はどうする、仏壇はどうする?

老後はどうなる?

こんなとこに埋もれて、俺の人生は、夢は?

これでいいのか?

日本に戻って近所にお土産を配ったり、カンボジアの話をしたり。

たまにはススキノに飲みに行ったりもしたい。

帯広の行きつけだったスナックのママは元気だろうか。

頭をブルブルと振りながら、ちょっと待てと自分を戒める。

プノンペンにも日本の居酒屋が増え、車がなくても帰れるのでたまに飲む日本酒がうまい。ほとんどが升酒で出してくれる。コップに注いであふれ出る量が今日はちょっと多いかな、そんなことに幸せを感じる。日本的なスナックはないので、ほとんどの日本人は居酒屋で日本を感じる。ここがカンボジアであることを忘れさせる一瞬である。

そう、私は移民ではない。出稼ぎオヤジだった。

100年以上前のペルー、ブラジル、ハワイなどへ移住した移民ではないのだ。

結果的にここで人生を終えるのかもしれないが、住民票は日本にある。最後は施設で生活保護かもしれないが日本の国民であることに変わりはないのだ。

祖父はペルーへ移民、祖父を含め親戚数人がペルーとハワイに移民している。本家が山口県なので移民は多く、学生時代にはカリフォルニアの親戚を訪ねたこともある。

ご先祖様には申し訳ないが、私は気楽な出稼ぎ日本人なのである。時代の差もあるが、三男坊でもなく無職だったわけでもなく、両親を見送って気楽になったので若いころからの夢だった海外で農業をしているのである。

ここには海外青年協力隊の若者も沢山いる。20代のころに父に海外に行ってみたいと言ったことがあるが3分で、いや30秒で話は終了した、農家の跡取りだった私に父がうなずくはずもなかった。

現在サラリーマンの私は、ある意味で気ままにガチガチ会社人間の社長の元で、なんとか農業をしている。そのことだけでも幸せな人生かもしれない。

しかし、時がたつほどに野望は燃え上がり、ビックな農場を作るべく燃え始めている。

付き合いも増え、そろそろカンボジア人農家とタッグを組んで、日本テイストの農業を始めようか。

まあ、作業はカンボジア人にお任せするとして、マネージメントで彼らにも利益の出る農業をともに組み立てようか。

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