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ボランティア活動への参加を決意

学校の教え子たちと

大学で、CIEEという国際ボランティア機関が主催する海外ボランティアの説明会に何気なく足を運んでみた。過去に行った先輩方が国際ボランティアの魅力を、自身の体験談を交えて話してくれたのだが、気づけばその魅力に引き込まれていた。

もともと誰かの役に立つことが好きだった私は、思い切って参加してみることにした。とはいえ、豊富なプロジェクトにしばらく悩まされ、結局もともと興味のあった日本語教師のアシスタントをやってみることにした。

プロジェクトは8月半ばから9月上旬までの約3週間、現地の高校生または大学生に日本語を教えるというものだった。相手はインドネシア人、母語はインドネシア語。日本語が通じない彼らに、いかに日本語を教えるか、初めは不安でいっぱいだった。

航空券、ホテルなどはすべて自分で手配して、外貨両替制度を使ってお金も用意し、いざ渡航。海外に行くのは3回目だったので、搭乗手続きには慣れていた。

インドネシアで日本語教師として活動

みんなで仲良く

初日は移動で終了。2日目、スマランにあるオフィスに集合した。東京、大阪、長野から来た仲間たちと会い、インドネシア語のレクチャーを受け、近くのホステスで一泊。3日目からは、それぞれの活動場所へ移動だった。ここで初めて、ホストファミリーが紹介される。

私と大阪から来た友人は、Purwokerto(プルウォケルト)という場所での活動だった。ほかの二人がスマラン市内での活動だったため、二人を見送り、私たちは四時間かけて電車で移動、そしてPurwokertoのホステルで一泊し、本格的な活動は翌日からだった。

私のホストファミリーはとても忙しく、残念ながら4日目になっても直接会うことはできなかった。それもそのはず、私のホストファミリーは、私の活動場所となっている高校の校長先生のお宅だったのである。私自身もとても忙しく、この日は近所の大学、UNIVERSITAS JENDRAL SOEDIRMAN(ジェンドラル・スディルマン大学:通称UNSOED)の先生方にご挨拶。夜はここの学生宅に泊めさせてもらった。

5日目。ようやくホストとご対面。

そして、これからお世話になる高校におじゃまし、簡単に挨拶を済ませた後、今後の予定を打ち合わせし、最初の授業。アシスタント、と聞いていたはずなのに、私が行った高校は日本語の先生が一人もいないところだったため、わざわざ私のために授業時間を割いてくれていた。
結局、アシスタントではなく、自分で授業をしてしまった。UNSOEDで知り合った女の子が一人、マネージャーとして動いてくれた。スケジュール管理から通訳まで、非常に助かった。最初の授業でも通訳を務めてくれたのだが、私は英語で日本語を説明し、彼女は私の英語をインドネシア語に通訳する、という流れで授業は進んだ。

「コミュニケーションは挨拶から」ということで、まずは日本語の挨拶を教えたのだが、日本語、英語、インドネシア語の順に上から並べて板書し、その意味と使い方を示す。熱心にノートをとりながら聞いてくれた生徒もおり、通訳の彼女のおかげでクラスのみんなの理解が早かったのでありがたかった。

その日から、校長先生のお宅にホームステイ。そして、高校と大学を行き来する生活が始まった。

私の行った高校は、9月4日に創立記念日を迎えるため、学校を上げてパレードを行うイベントがあった。彼ら曰く、それを「カーニバル」という。そのため、当日にやるダンスやスポーツ試合のための準備を前日までやっていた。予選会のようなものである。その期間は授業がないので、私が実際に彼らに日本語を教えたのは最初の土日は除いた4日間のみであった。

午後からは大学で開かれるイベントに参加。入学式で挨拶をしたり、インドネシア語のレッスンを受けたりした。

高校での指導の他に、現地の大学でプレゼンも体験

Carnivalの時

Purwokertoの大学では、英語と日本語でプレゼンを一本ずつ行ったが、英語の方は「ヤクザ、腹切り、侍」をテーマに取り上げ「異文化理解」の授業内で、日本語の方は交流会内で「日本のテレビ番組」をテーマに取り上げてみた。ちなみに、「異文化理解」の授業内のプレゼンは、後に中間テストの問題に反映されたそうである。

この大学で日本語を研究する教授先生の研究発表を手伝いもした。そして、この時の様子は現地の新聞でも取り上げられた。

高校では、前述のカーニバルの準備ということで、スポーツコンペティションやエアロビなどをやっていた。スポーツコンペティションは見学させてもらったが、エアロビは高校の先生方もやっていたので、私も参加させてもらった。その後はなぜか、フィンランド出身バンドのIevan Polka の初音ミクバージョンと、PSYの江南スタイルに合わせて高校生たちがダンス。最初は見ているだけだった私も、彼らにより強制参加することになった。

カーニバル当日は、Purwokerto の街を、各クラスで決めたテーマの衣装を着て、全校生徒が練り歩く。もちろん先生方も、仮装はしなくても一緒に歩く。私も彼らと一緒に歩かせてもらったが、ホストファミリーから借りていた青い服を羽織り、生徒の1人がかぶせてくれた帽子に、日本から持っていったサングラスという簡単で且つ中途半端な仮装をしてみたところ、それなりに彼らにウケていた。

さて、カーニバルの翌日、私にとってはPurwokerto最終日。この日はUNSOEDで開かれる文化交流イベントに参加するため、朝礼で高校生に別れの挨拶をした後、大学へ向かう。

同時にこの日は私の誕生日でもあった。前述の日本語によるプレゼンをやった後、OIU(大阪国際大学)の学生との思いがけない交流もあった。そして、インドネシア流のバースデーのお祝いをしてもらった。インドネシアでは、小麦粉と水と卵を混ぜたものを誕生日の人がかぶるらしいが、私は粉だけかぶった。また、誕生日の人が何かをもてなす文化もあるらしい。私は日本から持っていった抹茶のキャンディーとビスケットをみんなに振る舞った。

翌朝、早起きして、電車とタクシーでスマランのオフィスに帰る。オフィスでは、スマランで一度別れた2人と再会し、体験レポートを書いて、提出、ミーティング。ここでボランティア証明書を受け取り、解散。ここから日本の実家まで、1人で再び帰ることになる。

そしてタクシーで空港まで行き、帰宅。日本では成人といわれる20歳の誕生日をインドネシアで迎えられたこと、そして、20年間で最も濃く、有意義な夏休みを過ごせたことは、きっと一生の宝物となって私の中に残るだろう。

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KANAMORI HIROKI
茨城県在住、高校からは千葉県の国際高校に通い、現在は某外語大で英語を中心に外国語を学んでいる学生です。海外には何度か渡航しており、その経験を発信していきたいです。