1,892 views

Varanasi(ワーラーナシー)の河原で焼かれる屍体

インド-Varanasi

こんにちは。

京都府立医科大学医学部医学科6年の東貴大と申します。

この度、インドで臨床実習並びに医療視察を一ヶ月してきました。

今回はその中でも、旅で感じたインド人の死生観についてシェアしたいと思います。

特に私が影響を受けたのはVaranasi(ワーラーナシー)という街にいった時のことです。

*本文中に、ご遺体に対して、非常に生々しい表現や描写が含まれています。
その手の表現に、嫌悪感を抱かれる方は読むことをオススメ致しません。

あらかじめご了承いただければ幸いです。

私が、インドのVaranasiへ行った7月下旬はちょうど雨季で、ガンジス川の増水しガートと呼ばれる堤防みたいな所は河の中でした。

雨季を除いて、Varanasiでは河原で毎日のように屍体が焼かれています。

雨季には、小さな焼き場で同様のことが起こるのです。

遺族自らが木を組み、その上に遺体を乗せて焼いていくのです。

日本のように、お葬式や初七日などの行事に追われることなく、インドでは故人と目の前でお別れをすることになります。

つまり、亡くなった日に遺族みんなで、故人の焼けていく姿、その燃えたぎる熱気、強烈な匂いを前にgrief(悲しみ)を共有するのです。

目の前で体が少しずつ焼けていき、頭蓋骨から脳が溶け出し…もちろん、それは強烈で目を覆いたくなるような体験です。

しかし、その現場にこそ、インド人の死生観が詰め込まれているように思うのです。

この話を共有するには、その日の朝行ったマザーハウスでのボランティアの話と一人の現地の方との話を先にする必要がありそうです。

インドのマザーハウスで聞いた話

インド_病院

マザーハウスはマザー・テレサが生前訪問していたクリニックとして今も残っています。

コルカタのマザーハウスの方が有名なのでそちらを知っている方は多いかと思います。

中にはシスター2人とボランティアの方々。

そこに世界中からボランティアや寄付が集まります。

患者さんは50人くらい。

シスターが自らインドの街並を歩き、生き倒れている人に声をかけてハウスに呼び込むスタイルで当時のマザー・テレサと同じことを今でもしているんです。

そこでは身寄りのあるなしを問わず患者さんを受け入れていて、患者さんは、定期的にメディカルチェックを医師から受けることができる環境が整っています。

病気の種類としては、認知症, 精神病, 結核が多く、結核の人は隔離病棟の地下で過ごしていました。

医療機関としては、そこまで充実した設備があるわけではありませんが、世界中からその思想に共感した方々が寄付をして成り立っています。

毎日洗濯してもらえて、住むところもご飯も困らない。

素晴らしい場所だと思いました。

マザーハウスは、多大な寄付をもらっているのに、洗濯機を買ったり、大きなベッドを買ったりしないのはおかしい!と言う方もいるが、それは違います。

生前、マザー・テレサは贅沢を敵と考え、質素な生活をすることで、多くの方に手をさしのべることを理念にしていました。

だから、現在でも、その思想が残っているのです。

半日のボランティアの後に、シスターにお話を伺う機会がありました。

私は、そのシスターのメンタリティーにひどく感動しました。

シスターは、マザーテレサの精神を淡々と、時には冗談を交えながら、以下のように私に諭してくれたのです。

「医療というのは自分と同じくらいの経済状況の方にするのが常です。

すると一番貧しい人たちはどうだろうか?苦しみのまま死んでいくしかない。

この街では、亡くなれば焼かれガンガーへ戻っていく。

すると彼らに助けを施そうとも、死んだらもうすでに遅いんです。

彼らは生きている。

私たちは施し、助けることができる存在なのです。

施すということは、私たちが一歩一歩神様へ近づいていく神聖な行為なのです。

彼らを助けない理由はないでしょう。

私は、こういったマザーの考えを慕ってここでシスターをしています」

シスターは奢ることなく、淡々と語ってくれました。

さも、それが当たり前かのように…

その後、マザーハウスでご一緒したMさんと焼き場に行くことになりました。

彼には、Varanasiへこれまで3度足を運んでいて、Varanasiの案内をしていただき1人の現地の方を紹介していただきました。

彼は、子供の頃はストリートチルドレンとして様々な経験をして、日本語・英語も話せるようになった、とんでもない努力をしている人です。

彼とインド人の死生観について話をしました。

彼は静かにこう言いました。

「一番大事なことは感じることを大切にすること。

理性や考えたりすることはノイズが入ることがあるし、波がある。

今この時感じたことを大切にすることこそ、生きるということなんだ」と。

インド人にとっての“生と死”とは?

インド_街

インドは、あまりに生と死が近くにあります。

それが故に、インド人は自分が生を受け、死を迎えるという流れを日常の中で目にする事になります。

自分がいずれ死ぬ事も、死ぬという事が少なくとも残されたものにとってどんなものかという事もあたり前のように「刷り込まれている」のです。

つまり、「いま」という一瞬が彼らにとって全てであり、だからこそ、自分の気持ちに正直にその「いま」を、そして同じく「いま」を共有する仲間を大切にすることができるのです。

いや、少なくとも私の目にはそのように見えました。

死が日常と隔絶した現代の日本では、色んな思惑が交差してノイズだらけの日常を生きているように思います。

しかし、私が出会ったインド人は少なくとも、今この時を大切に、そして自分の今の気持ちを大切に生きていたように思いました。

私はこうした素晴らしい経験をすることができ、これが日本をより良くする考えではないか、と感じました。

しかし、これを実際、今の日本でどう実践していけばいいか、明確な答えはありません。

私は、一人の人間として、一人の医師として何が出来るかこれからも考えていきたいと思います。

ここまで読んでいただきありがとうございました。

ご意見・ご感想等ありましたらt.azuma1018@gmail.comまでいただければ幸いです。

The following two tabs change content below.
contributor
contributor
BoundtoBoundでは寄稿者を募集しています。 あなたの経験が、これから海外に飛び立つ方の力になるかも知れません。 お気軽にお問い合わせください。