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フィリピン留学エージェントを作るまでの体験談

フィリピン留学エージェントを作るまでの体験談

こんにちは、長壁治弘(Osakabe Haruhiro)です。

2015年4月より、フィリピン留学フリーエージェントを設立し、経営しています。

まずは、僕の簡単な自己紹介をしましょう。

僕は、父が日本人で、母がフィリピン人のハーフです。

フィリピンのレイテ島ソゴドで生まれ、首都マニラで5歳の時まで育ちました。

その後、日本に来て、それ以降は日本に住んでいます。

中学を卒業するまでは、年に1回夏休みを使って、フィリピンの親戚を訪れに戻っていました。

大学卒業後に3年間就職し、“ある事”をきっかけに海外に行こうと決意しました。

これから書くのは、僕自身が海外で経験したこと、感じてきたことなどを書く『思い出話』です。

まず、留学のフリーエージェント『OUTPUT』を起業したまでの経緯を語っていきますね。

これから海外生活を考えている人や英語を真剣に学びたい人に、情報収集も兼ねて、少しでも僕の考えが伝わればいいなと思い、筆を取りました。

そして、何よりも僕自身が過去の経験を整理し、これからのビジョンをクリアにする為に、自分と向き合って書いていきます。

人間は誰しも、何か譲れない“アツい想い”を持っていると信じています。

僕にも僕しか持ち得ない、僕の“考え方”や“想い”があります。

僕の“考え方”や“想い”が、この記事を読んでくれている、100人のうち1人にでも伝わればいいと思って書いています。

それでは、本文をお読みください。

海外留学を決意したきっかけ

海外留学を決意したきっかけ

大学卒業後、群馬県の大きな牧場に就職し、繁殖和牛の管理・飼育はもちろん人工授精師として繁殖管理も行っていた。

仕事は天職だと思っていた。

叔父が酪農家だったため、牧場で働くことに強い憧れを抱いていたし、こうして毎日牛と関わりながら仕事ができる幸せをかみ締めていた。

何よりも、好きなことだから意欲的にどんな仕事もこなしたし、多少の汚点があってもそれ以上の快楽に似た感覚が、僕の意欲を奮い立たせていた。

本当に、牧場で働くことは天職だと思った。

就職して約3年後のある日に、僕にとっては人生の転機となる“大きな出来事”が起きたのを、今でも鮮明に覚えている。

その出来事とは、ある1頭の牛の死。

毎日の作業の中で、牛の出荷や仔牛の誕生など、常に生と死を目の当たりにしてきたのだけれど、この牛の死は本当に色んなことを考えさせられた。

…この出来事について詳しく話したいのだけれど、話が長くなるので割愛する。

また、別の機会に。

それをきっかけに、動物に関わるボランテイア活動に興味を持ち、そこから、貧しい人たち、学校に行けない子供たちに関わるボランテイア活動などに興味を持ち始めた。

そこで行き着いたのは、僕が生まれた国、“フィリピンの貧富の差について”だった。

高校を卒業してから、フィリピン方の祖母の葬儀を除いては、約10年以上もフィリピンには行っていなかった。

僕の記憶の中でのフィリピンと、“ネットの情報の中”でのフィリピンとは大きくかけ離れていて、衝撃的だった。

確かに、僕が5歳まで住んでいたフィリピンは日本とは全く違う環境だった。

中学を卒業するまで訪れていた、フィリピンの親戚の家なんて、日本では考えられない程の貧しい所だったということも覚えている。

自分の記憶と“ネットの情報”がかけ離れている事や、同じフィリピン人の血が流れているのに、住んでいる国が違うだけでこんなにも生活環境に差があるという事など、今更だが、一つ一つを自分自身の目で確かめたいと思ったのだ。

そんな想いは日に日に募っていたのだが、実際は色々と不安だった。

フィリピンについてもっと理解を深めるには、天職だと思っているこの仕事を辞めなければならない。

そして、勢いだけで将来の事を考えずに、行動することにも不安があった。

フィリピンには何度も行ったことはあるが、全て両親について行っただけで、海外旅行どころか、飛行機にも1人で乗ったことはない。

しかも、日本語以外の外国語なんて話せない。

フィリピンにいる間は、母が通訳の代わりをいつもしていたので、何か伝えたいことがある時は、僕が日本語で母に話し、それを母がフィリピン語で相手に伝えていた。

こんな僕が一人で何ができるか考えた時に、まずは言葉を覚えようと思った。

世界共通語の英語を覚えようと思ったのだ。

この考えから、この後にも記述するが、フィリピンではなく、カナダのトロントを最初の行き先に選んだ。

まずは真剣に英語を覚えて、それからボランティア活動でも何でも、行動に移ろうと考えた。

もう、本当に勢いだけで突き進んでいた。

留まってしまってはダメな気がしてならなかったのだ。

今思えば、これが僕の海外に行くと決断したきっかけで、今の活動も含めて全ての始まりだった。

カナダに留学するまでの日々

カナダに留学するまでの日々

結局、留学前に英語の勉強はできなかった。

むしろ、しなかったに近い。

無料の英会話教室に通ったこともあったけれど、仕事柄ほぼ休みがなかったので、ほとんど通えなかった。

もうここまで来たら、逆に開き直って、現地でどうにかなると考えていた。

『わからない事があったら、素直に人に聞く』

海外では、このルールを自分に課すことを決めていた。

普段何気なく日本で生活していると、簡単なようで意外とできない、このルール。

海外に留学したら、そこは日本ではない。

そして僕は無知な“子供”にすぎないだろう。

このルールを課すことで、 “色んな人との交流にも繋がるし、英会話の勉強になる”そう考えていた。

海外留学への出発当日、空港での手続きも難なくこなし、見送りに来てくれた大切な友人に手を振った。

出発までの待ち時間は非常に興奮していた事を覚えている。

…不安。

果たして、自分の定めた期間内で成果をあげられるのか?

1人、現地で無事に生活できるのか?

イミグレ(入国管理)を通過できるのか?

…期待。

数十時間後、飛行機を降りたらそこは日本ではないこと。

夢を現実にできること。

そして、未知の経験が待っていると考えると、ワクワクした。

約12時間というフライトは、そこまで辛くはなかった。

ただ、浅はかな知識しかない「エコノミー症候群」について、ひたすら気をつけていた。

そんな事をしていたら、僕の始まりの地となる「トロント、カナダ」に到着した。

空港に降りた時の、日本とは違う“におい“が、一番最初の思い出だ。

初めての海外、トロントに到着

初めての海外、トロントに到着

何故、初めの留学先をフィリピンではなく、カナダにしたかと言うと…

なんとなく。

目的は短期間で英語を話せるようになること。

その為には、英語圏が相応しいと考えた。

英語圏でも、聞き慣れた「アメリカ英語」の国。

父も若い時にカナダへの渡航経験があり、幼い時からカナダやメープルという単語を耳にしていたから。

と、いうこともあったと思う。

そして、フィリピン方の親戚がアメリカとカナダに住んでいるから。

僕自身は記憶にないが、以前、Facebookでメッセージを送ったら、相手はすごく興奮するくらいに僕のことを覚えていた。

…もう、カナダで決まり。

そんな感じで決断した(笑)

外国人と英語の環境に慣れる為に、初めの1ヶ月はトロントでホームステイをした。

その間に、ステイ先のファミリーに色々と教えてもらって、一人でもトロントで行動できるように準備していた。

実際に行動範囲が広がると、日本から持ってきた一眼レフカメラを肩に掛け、友人と自転車でトロントの色んな場所に行ってはシャッターを切った。

トロントでは、“出来るだけ公共の乗り物を使わずに、自分の足か自転車で行動する”という意識が芽生えていたりもした。

トロントは、たくさんの人種が住んでいる大都市。

そのため、一年を通して色んなイベントが開催されている。

一つの都市でいくつもの小さな集落もある。

チャイナタウン、コリアタウンはもちろん、グリークタウン、リトルイタリー、リトルジャマイカ…など、その地区でまた特色が変わっていて、おしゃれで飽きない都市だった。

交通の便だって、トロントは日本に比べたらシンプルで便利だった。

人はみんな気さくで、無知で何も知らない「子供」の質問にも耳を傾け、優しく答えてくれた。

トロントは本当に住みやすくて、僕は大好きだ。

出来る事なら、もう一度トロントに住みたいなと思う。

初めての海外、カナダ トロントでの生活は、実際に数週間で慣れてくる。

その間も目まぐるしく飛び込んでくる刺激が絶えることはなかった。

次回、「カナダ-学び編-」に続きます。

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