渡航前情報 | |
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name | Koudai |
Born | 1988(当時23歳) |
time | 2012/4〜2013/3 |
country/city | Canada/Toronto |
work | 営業 |
TOEIC | 300点(推定) |
準備した合計金額 | 60万円 |
航空機代 | 15万円(往復・オープン) |
海外保険代 | 10万円(一年間) |
英会話学校 | 10万円弱(一ヶ月) |
ホームステイ代 | 10万円(一ヶ月) |
生活資金 | 15万円 |
お金も英語力もない僕のリアルなワーホリ経験談
英語力もお金もないけど「とりあえず」本場のハンバーガーでも食べにいくかと思いカナダ・トロントに渡り、右も左も分からないなか、多くの人に助けてもらいながら、なんとか学校に通い、家を探して、仕事を探して、ランゲージエクスチェンジでスタッフをしたり、イベントを開催したり、雑誌でコラムを書いたり、人権改善団体を作ったり、恋をしたり・・でも最後には、突然ハンバーガー屋を作ったり、もともと働いていたお店のオーナーと殴り合いの喧嘩をして、ぼろぼろになって、やっと気付いた「大事にしてきたこと」について書いていきます。
英語は中学生の頃からとにかく苦手だった。
TOEICを受けたことはないが、渡航前に試しにやってみた中学英語のテキストは三割くらいしか出来なかったことを覚えている。
トロントで一ヶ月だけ通った英会話学校でも当然一番下のクラスで、そこでも良く分からなかった。
お金に関しても、ポケットに突っ込んだ15万円のみ。
トロントに着いて周りの日本人の話を聞いて驚いたが平均で100万円くらいは持って行くのがワーホリでは通常のことらしい。
さて、英語も出来ない、お金もない、なかなかどうしようもない状況だった。
なぜカナダにワーホリをしようと思ったのか
僕はトロントに行くまで日本で大学五年生をしながら、フリーランスで働いていた。
大学四年生までは新聞奨学生をしながらの学生生活で、とにかく忙しくて寝る時間もないような生活だった。
のんびりとモラトリアムを満喫したいと思い、一単位残して計画留年をしたのだけれども、とにかく時間を持て余してしまう。
必死な生活をしていないと不安にかられる性格になってしまっていたようで、フリーランスでの事業を始めたが、長く続ける気もなかった。
かといって、内定をもらっていた会社で一生働く未来も見えていなかった。
食品開発・市場開発関係の事業をしていたのだが、ある程度軌道に乗ってきたとき、このまま続けていても国内の市場を奪い合うビジョンしか描けず、海外に出ることを決意。
僕は将来世界中で飲食店や、シェアハウス、イベントスペースやライブハウスなどの自分の空間を作りたいと思っていた。
よし、「とりあえず」は本場のハンバーガーでも食べに行くかというくらいのノリで、トロントにワーホリすることに決めた。
良くも悪くも、これまで自分で学費・生活費を稼ぎながら大学を出たこと、個人事業で結果を出せたことにより、怖いもの知らずになっていた。
英語力がなくても語学学校ではすぐに友達ができる
初めの一週間は留学エージェントの方と銀行口座の開設や、学校選びのためにトロント中の学校をまわった。
もちろん何を言っているか分からないし、何も言えない。
しかし相手は、英語の出来ない学生を扱うプロ。「トライアウト」とだけ伝えればなんとかなるし、大抵の学校には日本人のスタッフがいるので、日本語でも何とかなる。
学校に通い始めても、同じような英語力の日本人と韓国人やブラジル人しかいないので気楽に授業を受ける事ができる。
みんな、海外での生活が始まったばかりで同じような不安を抱えているのからこそ、すぐに打ち解けることが出来るのだと思う。
もともと英語を話せる人は、同じ国籍の人といても仕方がないと考える傾向にあるが、英語が話せない人たちはそんなことよりも、心置きなくコミュニケーションの取れる友人を持つことが精神面での安定に関わってくる。
英語の勉強に興味を持っていなかった僕は、授業中もハンバーガーの質問ばかりしていたが先生たちは気さくに応じてくれていた。
放課後はみんなでご飯を食べたり、美術館に行ったり、サッカーをした。
休日はバーベキューやピクニックと、何もかもが新鮮で楽しかった。
僕の求めていたモラトリアムはここにあったのだと感じた。
第一関門は「ホームステイ」と「カフェ」
しかし、ホームステイ先での会話は苦痛で仕方なかった。
今思えば、気を使ってゆっくり話してくれていたのだが、当時の僕には全く聞き取れず、曖昧な返事しかできないので部屋に引きこもって、ポテチで空腹を満たしながら半泣きで勉強をしていた。
カフェでも、砂糖を付けるか、ミルクは必要かなど聞かれるし、スタバなんてどこまで質問攻めにするのかというほどいろいろ聞いてくるので、カフェに行くのも躊躇してしまうような生活で、思い返してみると、このときが一番辛かったと思う。
第二関門は「家探し」
語学学校を卒業する時期に差し掛かると同時に、ホームステイから次に住む家も探さなくてはいけなかった。
トロントでシェアハウスを探すとなると、デポジットとして大抵は2ヶ月分の家賃を先に支払う必要がある。
お金のなかった僕は月400ドル程度のシェアハウスを探さなくてはならない。
都心から離れた辺鄙なところならそのくらいの金額でも見つかる。
しかし、とにかく英語が分からなかった。
飲食店での基本的な注文や、日常会話は何とかなるようになっていたが、対面での会話よりずっと難しい電話での会話で、契約の話をするのは不可能だった。
そのときに助けてくれたのが同じ学校でレベルの高いクラスにいた友達のナミちゃん。
僕の代わりに電話をして、内見にも同行してくれた。僕はこのときの恩を死ぬまで忘れない。
一件目のシェアハウスはFinchという、最終駅に位置したがとても綺麗で、同年代の日本人も住んでいたのですぐに即決し、その場で契約を交わした。
トロントの電車エリアは狭く、東京の山手線ほどしかないので、中心街までも30分くらいで行くことが出来るので距離的には苦でなかったし、なんといっても米がシェアハウスに常備されていて、無料で食べ放題という条件に惹かれた。
家賃を払うと無一文になる僕としては、これであと二ヶ月間は死にはしないと安堵した。
そして、この米を学校で売りさばき、生活費にすることで生き延びた。(真似しちゃ駄目)
ちなみに家賃の低いシェアハウスは危険な地域であることが多いので女性には、あまりお勧めできない。
同じ学校の女の子たちは月700ドルくらいの綺麗なシェアハウスに住んでいる人が多かったように思う。
どこの国でも日本人女性は部屋を綺麗に扱うしトラブルも起こさないので家主に好まれる。日本人女性専用のシェアハウスも多く、日本人女性はすぐに住居が見つかる。
シェアハウスは順調に決まったが、ホームステイ先の退去日からシェアハウスの入居可能日まで二週間の空白期間があったので、どうしようかと悩んでいたところ、内見に付き合ってくれたナミちゃん、そして共通の友人であるナミさん(同じ名前)と、ゲストハウスで二週間だけ一緒に暮らすことになった。
このときも、色々と英語面で助けてもらい本当に感謝している。
そして突然だが、この時期に恋に落ちた。
トロント大学で行われるランゲージエクスチェンジ(日本人がカナダ人に日本語を教え、カナダ人が日本人に英語を教えるコミュニケーションの場)にて、トロント大学に通う女の子に恋をしたのだ。
カナダでの生活が始まり1ヶ月が経とうとしていたころだった。
お互い下手な日本語と英語でコミュニケーションを取り、付き合えたのは良かったが、やはり英語が分からないので勉強を続けた。
僕は、英語の勉強のためということでカナダ人と付き合いたがる日本人は大嫌いだったが、確かに英語力は伸びるのだろう。
しかし、彼女が出来ても喜んでいられないほどお金がない。
第三関門は「仕事探し」
一ヶ月間の語学校を卒業し、二週間ほどふらふらしてから仕事探しを始めた。
周りの日本人は日本食レストランでは働きたくないという人が多かったが、僕にはそんなことを言う余裕はなく、顔見知り程度の友人が働いているお店にレジュメ(履歴書)を持っていった。
そして、予想外にその場で面接となった。
英語での面接なんて出来る英語力でなかった僕は、処刑されることを覚悟したが意外にも日本語での面接となり、それまで日本で鍛えてきた営業力を武器に必死にアピールをした。
英語での簡単なテストはあったが自己紹介程度で、僕でもこなせるものだったので、必要性を疑う程度のテストだった。
彼女に書いてもらった完璧なレジュメ、日本で鍛え上げてきた営業力、トロントの飲食店で働くことを見越して日本のホテルでバイトしておいた経験のおかげで、その場であっさり採用となった。
キッチンでの採用かと思いきや、サーバーとして働くことになった。
当サイトの方向性に従い正直に書くと、ルックスは大事だ。
これは僕の働いていたお店に限らず、見た目を重視される。
日本でも、サービス業においてルックスというのが一つの判断材料になるのは間違いないが、ほかにも勤勉さや清潔感などを重視する傾向にあると思うが、トロントではルックスと陽気なキャラクターが大きなポイントとなる。
もちろん英語力も大切ではあるけれども、英語力がなくても何とかなる事例をいくつか知っている。逆に、人が足りなくて困っているときに、英語が達者で、飲食店での経験のある人が募集してきたとしても見た目で落とすなんてこともあった。
全てのお店が同じ考え方なわけではないので、気にしすぎても仕方ないが、あくまで文化の違いとして頭に入れながら職探しに励む必要があるのかもしれない。
サーバーで働くとは思っていなかった僕は、出勤日まで必死に英語での接客を身に付けようとイメージトレーニングを重ねたが、働いてみるとそんな簡単にはいかず、英語が聞き取れないことによるミスを多発していたらしい。(帰国してから先輩に笑い話で聞かされて知ったことだけど)
一ヶ月もすれば、リスニング能力も向上するし、どんな質問をされるのかというパターンも分かってくるので、なんとかやれた。
トロントの夏はイベントだらけ
ホームステイ・家探し・仕事と、やはり英語力が低いと苦労する。
しかし、大変なことばかりではなく、週末のBBQやトロントアイランド/BURGER WEEK/モントリオール旅行/音楽イベント/NEXT MUSIC from JAPAN(ZAZENBOYS・group_inouなど)/ナイアガラの滝へのドライブ/ゲイパレードなど、トロントの夏は楽しいイベントも充実していた。
トロントでの生活が長くなるにつれ、主催や招待者としてイベントに参加することが増えていったこともあり、純粋に旅行者気分で楽しめていたこの時期が一番楽しかったようにも思える。
トロントでの生活に慣れ始めたころ
気付いたらトロントでの生活が半年目を迎えようとしていた。
毎日浴衣で過ごしていたので、道行く人によく写真を撮られた。
仕事では先輩たちが抜けて、同期のワーホリメンバーたちと楽しく働けていた。
お客さんと積極的にコミュニケーションを取る姿勢を評価してくれるオーナーだったこともあり、僕はサブマネージャーとして働いていた。
英語力は従業員の中でも一番下だったし、お客さんと話してばかりだと同僚から批判されることもあったが、有名なお店だったことっもあり、トロントでのコミュニティーが広がり始めていた。
上記であげたトロント大学でのランゲージエクスチェンジでも数少ない日本人スタッフとして活動していたこともあり、ここでも人脈は増えていった。
「とりあえず」本場のハンバーガーでも食べに行くかという本来の目的も、グルメ雑誌のTOP100をほとんど制覇し、カナダでの生活は充実していた。
同い年で、屋台を経営する日本人のシンジとの出会いをきっかけに、自分も「もうちょい攻めてみるかな」と思うようになった。
それまで、自作のハンバーガーを彼女や友人に振舞うことはあったけれども、多くの人に食べてもらう機会というのはほとんどなかった。
そこで友人のアキラに声をかけ、イベントを開催することにし、準備を始めた。
Pursuing Dreams from Japan
イベント名はPursuing Dreams from Japan、内容はダンサー、ソングライター、ペインターなど、トロントでチャンスを探している日本人のアピールの場とした。
広いステージとキッチンがあり、100人以上のキャパを持つ箱を探すとなると、それなりにお金がかかるかと思っていたが、イベントの趣旨を伝えると教会が低価格で貸してくれた。
フライヤー作成や、各地での宣伝の甲斐もあり、イベントには予想を超える150人以上の人々が集まってくれたが、僕はオーガナイザーとしての仕事をする暇もなく、ハンバーガーを作り続けることしかできなかった。
このイベントを通し、ハンバーガーのイメージを植え付けることに成功し、その後、多くのイベント・パーティーにベンダーとして招待してもらい、オープンに向けての出資者も集まるようになり話が大きくなっていった。
自分の事業を展開するのは面白いし、向いているとも思えたが、これでは日本にいた時と変わらないじゃないかと自分に嫌気を感じていた。
僕はあくまで「とりあえず」本場のハンバーガーでも食べに行くか、でトロントに来たわけで、そういう「なんとなく来ました」感を大切にしたいなぁと、この時期から帰国を考え始めていた。
だから、「なんとなく」を大切にしながらハンバーガー屋をはじめようと思い、自分の力だけで始めることにした。
ビルのオーナーに、気軽に話してみたら、「面白そうだからやっちゃえよ!そこらへんのスペース使っていいよ!」と、ここら辺はカナディアンのノリなのか、強引にスタート。
帰国直前にオーナーと喧嘩をして気付いた大事なこと
ハンバーガー屋をスタートし、仕事も彼女とも順調で、TORJAという雑誌ではコラムを連載し始め、ネイティブカナディアンともストレスなく会話を楽しめ、トロントでの生活は充実し、帰国日も決まり、このまま順調に帰国を迎えることになると思っていた。
しかし現実は面白いもので、帰国まで一ヶ月という時に、ふとしたきっかけで働いていた日本食レストランでオーナーと殴り合いの喧嘩になった。
お互い様なので警察沙汰にはならなかったし、クビにもならず、あっさり治まるように思えたが、強烈に痺れたというか、「ああ、これだ!」と、ずっとトロントで感じていたわだかまりに気付いた。
僕ら日本人の大半は一年程度しかトロントに住まない。
そのせいで、色々なマイナス面を、なぁなぁにして過ごしているのではないか。
家賃の契約で騙された人もいたし、仕事先から給料が支払われなかった人もいたが、どこかで「海外だし仕方ないさ」と思っていたように感じる。
そして、泣き寝入りをするしかないと思っているのではないか。
確かに、環境に合わせることも必要だろう。
それでいいのなら、それでいいと思うけど、僕は心の底で良しと思っていなかったことに気付いてしまった。
喧嘩になった日本食レストランのオーナーは、それまでも横暴な態度が目立つ人で、僕が新人のとき同僚が悔し涙を流すこともあった。
あの時、僕は自分が正しいと思うことをするべきだった。
新人だから口を出さずにおこうとか、お金がないからとりあえず働くところはなくせないとか、ここで働いていれば英語力も伸びるし人脈も広がるので良い経験になるとか、そんな下劣なことを心の底で思っていたのではないかと不安になった。
初めての海外生活であろうと、英語が分からなかろうと、お金がなかろうと、引いちゃいけないところは引いちゃいけない。
それだけは貫けると思ったから、お金も用意せず、英語も勉強してなかったけど、「とりあえず」でトロントに行こうと思えた。
日本人だから仕方無い、ではなく、日本人だからこそ今後の若者のためにも拘らなければならないと思った。
そう思うと、ここで何もしなければ、これまでのトロントでの生活の全てが空虚なものになってしまうように感じ、トロントでの日本人の人権向上を目指す団体を作りはじめた。
ワーホリで海外生活を体験する面白さ
行動を起こし始めてすぐに日本食レストランは辞めたが、ハンバーガー屋は続けていたし、最後の一ヶ月は再び学校にも通い始めていたし、ほかの活動も多忙だったが、とにかく問題に対して納得行くまで活動した。
行動を始めると、すでに人権問題に対しての公的な機関があることも分かったし、日本領事館や、多くの団体、トロントで長年生活する方々や、トロントで経営を営む方々の力を借り、対応によっては営業停止を求めるための法的な準備を整えてオーナーと話し合いをすることになった。
話し合いはスムーズにとは行かなかったが、こちらの要望は「形式上」は受け入れられ、帰国前日に日本人の若者たちに手伝ってもらい「トロントでの日本人の人権改善」をテーマにイベントを開催した。
交渉に時間がかかったこともそうだが、帰国前日と言うことで、本当に仲間には迷惑ばかりかけてしまったが、無事終えられたのは多くの人の力のおかげだった。
短期間での行動で、僕がすぐに帰国してしまったこともあり、あくまで表面上の働きでしかなく、根底を変える大きな力には出来なかったので満足のいく結果とは思えない。
それでも、現状を良しと思っていない日本人がいることは伝えられたし、あれから一年半が経つが、役にたったと言って頂けると、引かなくて良かったと思う。
英語を話せるようになりたかったわけでもなければ、海外での生活を楽しみたいわけでもなかった。
英語も分からなければ、お金もない状態から始まり、最後の最後まで自分の信念を貫くために多くの人に救われ続けた一年間だった。
言い換えると、日本だと一人でもこなせてしまうことが、海外では周りの力を借りなければならなかったので、改めて周りの人への感謝を噛み締める機会になった。
同時に「とりあえず」で生活し始めた海外で、想像をしていなかったような経験が、日本で生活しているときよりも簡単に出来た。
「とりあえず」なんて言いながらも、欲しい物は片っ端から手に入れないと気が済まない性質なので、無茶することも多く、吐血するたびに医療費を払う金がないと笑って忘れることにしていた。
でも、最も多忙だった帰国直前の二月。
マイナス20℃の寒空の下、僕のクチから吐き出された血がトロントの綺麗な雪に染み込む光景に、これからの僕が進むべき道が「はっきり」見えたように思えた。
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